徳島文理大学 比較文化調査報告第4号”造田の民俗”

(安藤名誉教授著)に以下のように書かれています。


安政の頃大川郡(今のさぬき市と東かがわ市)長尾村の住人に有馬義敦という者があり、この者は若くから仏教を信じること深く、、、、自ら霊場を巡歴しそれぞれの霊場で一握りの土を採取して持ち帰り是を埋めてそこを遥拝場として観世音菩薩を礼拝出来るようにすれば大変功徳になるだろうと思っていた。

安政六年(1859年)妻と孫(義春)をつれて京都の清瀧寺に着いたとき病気にかかり不帰の客となった。。。。

 その時の孫義春は祖父の死を悼み自ら僧となって願興寺12代住職真澂上人が誕生した。

上人は祖父の遺志を完成させたいと念願し

この願興寺境内に遥拝場を開設したとのこと。

 現在も第三番紀州粉川(河)寺の千手千眼観世音の石

には寄進者として願興寺住職橘真澄と刻まれています。

願興寺西国三十三観音遥拝場


                                                       
遥拝場由来


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

のぼり旗

寺の整備にあたりご協力者に対する

寺からの感謝の気持ちを込め、

お世話になった方のご芳名を

入れさせて頂きました。

 

西国三十三観音入口の写真参照

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 



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